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日本橋べったら市

数々の歴史をくぐり抜けてきた東京にいたか屋

  • 東京名産「東京べったら漬」で全国にご愛顧賜っております株式会社東京にいたか屋は、今から約80年前、旧東京市京橋区西八丁堀2丁目15番地に創業者矢代米治の個人商店「新高屋」として産声をあげました。総菜、煮豆、漬物などを製造しながら店頭で小売するのが最初のなりわいでした。
    昭和5年といえば、満州事変勃発の前年にあたり、国内では「3.15事件」の弾圧、治安維持法の強行、浜口民政党内閣による緊縮財政の断行、国外に目を向ければ、ニューヨーク、ウォール街発の世界大恐慌など、まさに今の時代を彷彿とさせる狂瀾怒濤の時代でした。 金融恐慌の嵐の中で、あふれる失業者を尻目に「東京行進曲」が大ヒットしたのもこのころです。
    不況の嵐の中でも、新高屋の事業は順調に発展し、5年後の昭和10年3月には、合資会社新高屋商店に改組、法人としての第一歩を踏み出しました。
  • かつてのお江戸日本橋のべったら漬
    [かつてのお江戸日本橋のべったら漬]
    その後、第2次世界大戦の戦災を受け、東京都台東区台東2丁目に移転するとともに、漬物の専門メーカーとして事業内容の変革を遂げてゆきます。 創業者矢代米治と妻シゲは、当時、戦争で中断されている「日本橋ベったら市」で販売されていたべったら漬けを自ら製造してみようと試みました。浅草猿若町の二丁目茶屋という店から売り出されたベったら漬けが特に世にもてはやされたとの文献を頼りに、商品化に成功。
    昭和22年には、「べったら市保存会」に協力を申し出て「日本橋ベったら市」の再興にこぎつけることができたのです。
  • かつての深谷工場 :: 外観/内部
    [かつての深谷工場 :: 外観/内部]
    昭和24年には、べったら漬けの販売が拡大することに伴い、製造場所が東京都台東区という商業地、住宅地であることに配慮して、埼玉県深谷市上野台に工場を新設し、生産の一部を新工場に移転しました。

    昭和29年3月には、全国漬物品評大会において農林大臣賞を受賞。これにより東京名産の「べったら漬の新高屋」評価は飛躍的に増大し、販路は全国に拡大していきました。 ところが、販路の拡大とともに、深刻な原料大根の不作に悩まされるようになりました。 この頃、新しい原料大根の供給地として登場してきたのが栃木県の日光戦場ヶ原の開拓地でした。
  • 新高屋行の大根を出荷する開拓地の人々
    [新高屋行の大根を出荷する開拓地の人々]
    世界大戦の敗戦で緊急国策として発足したのが当時の食糧増産のための開拓事業でした。 しかしながら、栃木県の開拓事業は終戦直後の昭和20年に戦災者、引揚者、復員軍人が入植して開始されたものですが、入植当時の苦労はまことに筆舌につくしがたいものでした。

    開拓地で大根をつくっているらしい、と聞いた矢代米治シゲ夫妻は、日光戦場ヶ原の不毛の原野を徒歩で開拓農家を探し求め、やっと出会えた開拓農民の方に「余った大根もすべて、責任を持って買い取ります。どうかよい大根をつくってください。」と申し出たのです。

    この熱意に当時の開拓地の吉津谷組合長もついに動かされ、開拓地における高冷地大根栽培の糸口が作られたのです。 この契約栽培によって開拓地における高冷地大根の栽培地は急速に広がり、新高屋にとっても安定的な原料が確保されると同時に、開拓地にとっても貴重な安定収入源となり、開拓組合から非常に感謝をされることになったのです。

宮内庁御用として

  • 献上品を那須御用邸へお届けする
    [献上品を那須御用邸へお届けする
    新高屋社長夫妻]
    この、戦場ヶ原での大根契約栽培は、また新高屋に望外の光栄をもたらすことになりました。 たまたま天皇陛下のご静養先である宮内庁那須御用邸に開拓地が接して存在することから、昭和天皇陛下が入植者の実情をいたく御心にとめられ、栃木県知事の御機嫌奉伺の際には常に御下問を賜っていたことから、昭和32年8月、開拓組合より御礼言上を兼ね、高冷地大根、およびこれを原料とする新高屋の「べったら漬」をはじめて献上申し上げることになったのです。
    新高屋社長夫妻や開拓組合の方々の感激たるや大変なものでした。

    爾来毎年、これを継続する光栄に浴していたところ、昭和35年頃からは、当時「昭和天皇の料理番」と呼ばれた宮内庁大膳課主厨長の秋山徳蔵氏より、新高屋の「べったら漬」を宮内庁大膳課へ納品するようにとの注文も賜るようにもなりました。

    天皇、皇后両陛下へ献上の新高屋謹製べったら漬と奈良漬
    [昭和天皇、皇后両陛下へ献上の新高屋謹製べったら漬と奈良漬]
    昭和37年8月29日、新高屋べったら漬原料の戦場ヶ原高冷地清浄栽培大根をご視察中の天皇、皇后両陛下
    [ 昭和37年8月29日、新高屋べったら漬原料の戦場ヶ原高冷地清浄栽培大根をご視察中の昭和天皇、皇后両陛下]

    谷部金次郎著 『昭和天皇の料理番』
    谷部金次郎氏著
    『昭和天皇の料理番』
    昭和37年8月には日光戦場ヶ原開拓地の大根栽培場に直接、昭和天皇、皇后両陛下をお迎えする無上の光栄に浴することになり、感激これに極まれりであったそうです。

    谷部金次郎氏著『昭和天皇の料理番』には、昭和39年9月の昭和天皇の食事の献立が記載されていますが、ここに挙げられている「ベッタラ漬け」とはまさに新高屋が宮内庁大膳課に献上・納入した新高屋の「べったら漬」なのです。

    記念徽章額
    記念徽章額
    新高屋が献上と納入の実績を重ねた結果、昭和40年には、新高屋に対して、宮内庁大膳課へ継続的に納品することができる通行証の発行が認可され、宮内庁大膳課主厨長の秋山徳蔵氏よりも宮内庁御用達としてお墨付きの言葉をいただきました。これは新高屋にとってこの上ない光栄であり、業界でも、新高屋が「宮内庁御用達」になったという話題で大騒ぎだったということで、新高屋では、記念に徽章の額が製作されました。

    新高屋は、この通行証をもって、皇居の乾門(いぬいもん)を通り、宮内庁大膳課へ直接、新高屋の「べったら漬」を納品できるようになりましたが、昭和40年当時、この通行証の認可交付をもって「宮内庁御用達」を拝命したとするのが世間一般の認識だったということです。(注1: 制度としての宮内庁御用達について)

    このような経緯があったことから、新高屋の「べったら漬」は、宮内庁に納品しているという事実をもって広く一般に「宮内庁御用達」と認識されております。

    TBS「そこが知りたい」
    TBS「そこが知りたい」
    その後も宮内庁大膳課より頻繁に「べったら漬」の注文を賜り、幾度となく、皇居内の宮内庁大膳課や赤坂御用地内の東宮御所に「べったら漬」を納品させていただきました。

    平成8年には、TBSのテレビ番組「そこが知りたい」において、宮内庁御用達という位置付けで「新高屋のべったら漬」の取材・放映が行われました。番組の趣旨としては「宮内庁御用達とは?」という内容も含み、宮内庁にも了承を得た取材であったと伺っております。

    (注1: 宮内省(宮内庁の前身)が正式に明治24年に制定した「宮内省御用達制度」は、太平洋戦争後、宮内省が宮内庁に変わり「宮内庁御用達」となりましたが、昭和29年にその制度自体は廃止され無くなりました。制度が廃止された今現在では、宮内庁への納品を行う業者や、過去に納品していた業者、または皇室の方がご利用された食堂やレストランなどが、天皇陛下をはじめ、皇族の方々が愛用されたという事実をもって、一般に「宮内庁御用達」と認識されております。雑誌やテレビメディアでも取り上げられることも多く、宮内庁御用達を取り上げた紹介本なども数多く発行されております。[参考:「宮内庁御用達 商品購入ガイド(河出書房新社)」、「谷部金治郎監修・ロイヤル・グルメ(成美堂出版)、皇室ゆかりの逸品厳選47(タツミムック)、昭和天皇のお食事 (文春文庫)」、「宮内庁御用達、日本の一流品図鑑(講談社)」「これが宮内庁御用達だ、こだわりの名品(日経ビジネス人文庫)」等、多数の出版物が発行されている])

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秋山徳蔵氏、侍従職、各宮家より新高屋への書状
[秋山徳蔵氏、侍従職、各宮家より新高屋への書状]
メディア等で取り上げられる「宮内庁御用達」の品々。
[メディア等で取り上げられる「宮内庁御用達」の品々。]

新高屋原料農家の万歳三唱にお応えになる昭和天皇、皇后両陛下
[新高屋原料農家の万歳三唱にお応えになる昭和天皇、皇后両陛下]
献上品原料栽培地の鬼怒高原に立つ創業者 矢代米治
[献上品原料栽培地の鬼怒高原に立つ創業者 矢代米治]

伝統の味と文化を伝える・・・東京新高屋

  • 伝統の味と文化を伝える・・・東京新高屋このように、弊社および東京名産「東京べったら漬」は、先人達の大変な苦労の上に受け継がれてきているものでもあります。それが伝統と呼ばれるものであり、我々はこの引き継がれる偉大な先人達の精神を引き継ぎながら精進を重ねなければならないと日々、心に誓いながら業務に邁進する所存でございます。